昔、私が思っていたこと
皆さん、こんちは!doriです。
私は、自分が結構いい年齢になるまで、自分には何もないと思っていました。
人は自分がある程度の年齢になると、こんな経験をした、あんなこともあったと、お話が書けるほど、様々なことを経験していきます。
私はと言えば、幼い頃から、気が付けば自分を抑え、言いたいことも言えず(いや、言いたいことも分からない状態でした)ただ、人の言うことに笑みを浮かべてうなずくばかり。そんな自分を情けなく思うものの、ではどうすればよいか、全く見当もつきませんでした。情けなくて、涙することも。
そんな私が、どうやってこれだけの自信を持ち、今を精一杯、楽しく生きていくことが出来るようになったかというと、少しずつ、少しずつ自分が思っていることを口にできるようになったからです。
今、自分のことを情けなく思っている人、自分には何もないと思っている人、それはきっと、自分が成長する、避けては通れない通過点だと思います。
逆に言えば、それは必ず通り過ぎます。自分の望むものは、必ず与えられます。
それは、幼い頃から自分を抑えて、全く自信がなかった私から、あなたへ贈る言葉です。この道は、あなたが輝くための一本の道だと信じて、一歩ずつ歩んで行って下さい。
光を信じて…。
私の望み
皆さん、こんにちは!doriです。
久しぶりのブログの更新となりました。
忙しさや、あれこれ考えることが多くて、少し疲れていました。
今、大丈夫です(^^)/
前回、通信制の大学へ入学したことを書きました。
勉強と仕事の両立は大変でしたが、本当に私にとって大事な経験、そして大きな学びの機会となりました。
一緒に暮らし始めた彼でしたが、一年半でお別れすることになりました。
しかし、その間とても楽しかったし、たくさんの喜びをわたしにくれました。
無事、4年で卒業し、何とか国家試験にも受かることが出来ました。
大学の先生方、事務の方、大切な仲間、そして実習先でお世話になった方々、それから私が勉強することに理解をし、支えてくれた家族に、心から感謝しています。
私の望みは、一人でも多くの方が、自分に自信を持ち、心から自分を好きになって、自分の可能性を心行くまで広げてほしい。出来れば、その少しのお手伝いが出来たら私はとても幸せです。
このブログで、少しずつ、自分に自信を持って、自分を好きになって頂けたら、本当に嬉しいです。
次回からは、幸せになるために、私が思うこと、実践したことなど、書きたいと思います。
では、また👋
新しい挑戦
こんにちは!doriです。
16年一緒に過ごした旦那さんと離婚が決まり、時をほぼ同じくして病院を辞めた私は、実家へ戻りました。
それからしばらくは、家業の仕事に専念していましたが、叔父の病気をきっかけに、社会福祉士になりたいと思うようになっていきました。
”自分も、誰かの役に立てるかもしれない”
そう思うと、何だか心からわくわくしてきます。
社会福祉士になるためには、大学卒業という要件が必要です。
高校しか出ていないし、勉強は苦手でしたので、本当に私にできるだろうかと、不安もありました。
仕事と両立するためには、通信制の大学しかないと思い、ネットで住んでいる場所から一番近くを探しました。田舎ですので、条件にあうところはなかなかなく悩みましたが、ここなら、と思う学校があり、そこに決めたのです。
ネックは、スクーリングでした。
年間にすると結構な回数でしたので、内心、親に反対されないか心配でした。
でも、諦められない。
決意して、入学を決めました。
高校を卒業して、本格的に勉強するのは初めてです。結構な量の教科書を前に、本当に大丈夫かと心配になりましたが、やるしかありません。
課題の提出、パソコンでの講義、期末テスト、そしてスクーリング。本当に大変で、正直、入学したことを後悔していました。
でも、そこで知り合った同じ志の仲間との出会いもあり、今思うと、大変でしたがとても楽しかったですね。
その頃、前の職場の同僚と、ご飯を食べに行ったりなんとなくお付き合いしているのかなと思うようになりました。そんな日が1年くらい続いたでしょうか。
その彼が、家を出て、うちで一緒に暮らしたいと言い出しました。びっくりしましたが、彼の事情もあり、母を説得して再婚することになったのです。
彼は実家の仕事と自分の仕事の2足のわらじでした。
一番助かったのは、スクーリングのとき、彼がいてくれたことです。
本当に有難かったです。
母と彼の協力を得て、勉強をすることが出来たのです。
今日はここまで。では、また👋
自分にできるだろうか。
こんにちは!doriです。
介護病棟で、約3年くらいいたでしょうか。
そこで、大人になってから初めて、親友と呼べる同僚と出会いました。
他愛ない話や、私も彼女も洋服好きなこともあり、一緒に買い物に行ったり、うちでご飯を食べたり、楽しい日々を過ごしました。
そしてまた、私は一般病棟へ移動になり、かつてお世話になった方たちとまた一緒に働くことになりました。
一般病棟は、病状が安定しているお年寄りだけでなく、重病の方やけがをされている方などがおられ、今まで以上に気を遣う毎日でしたが、やりがいもあり、一生懸命仕事をしていたと思います。
そして、入社して6年半が経ったころ、実家の家業を一人で賄っていた母に限界が近づいていました。
一人でやるには体力的にしんどい仕事です。病院で、私なりに精一杯働いたと思った私は、迷わず家業を手伝う決心をしました。
家業の仕事は、それまでも休みの日には手伝っていましたし、高校生の頃からやっていたことでしたので、難なく覚えていきました。
何より、母の負担を減らせたことが、私のモチベーションになっていました。
ある日、私の叔父さんが入院することになり、経済的にあまり余裕のない家でしたので、さて治療費はどうしようということになりました。
困っている叔母の顔を見ていると、何かできないかと思うようになりました。
しかし、うちも余裕などなく、金銭面の援助はできません。
叔父は腎臓が悪かったので、何か利用できる制度はないかと思ったのです。
それを調べて教えてあげようと思っていると、病院のソーシャルワーカーに利用できる制度など聞いたそうです。
そこで初めて、自分が当然利用できる制度があるにも関わらず、知らないというだけでその恩恵に預かれない人のために、勉強して教えてあげたい、思うようになったのです。
それには、社会福祉士という資格を取らなくてはいけませんでした。しかも、大学卒業の要件を満たし、国家試験に合格しなければなれないと知り、私には無理だと諦めていました。
でも、諦めきれない。
海外で生活している姉と、旦那さんが久しぶりに帰ってきていた時、意を決して相談してみました。みんなで晩御飯を食べていた時、
”私、通信大学で社会福祉士の資格を取りたい!”というと、初めは難色を示していた母も、”じゃ、やってみたら”と言ってくれました。
それから、私の最大の挑戦が始まりました。
今日は、ここまで。
次回は、通信大学に入学してからのことを書きますね。
では、また👋
私は私でいいの?
皆さん、こんばんは!doriです。
職業訓練の学校の途中で、病院の求人があることを知りました。
まだ、残り1か月ありましたので、終わってからでも良かったのですが、早くお給料を貰わなければいけないと思っていたので、すぐに応募しました。
職業訓練で学んだ、履歴書の書き方や職務経歴書を丁寧に書き上げ、面接と簡単な試験に臨みました。
そして、結果は、無事合格!
まもなくして、病院での仕事が始まりました。
初めは、右も左も分からない。介護の資格は取ったものの、自分が本当にここで務まるのか、不安な日々でした。
そこで出会ったのが、一つ上の先輩でした。丁寧に仕事を教えてくれて、職場内で気を付けるべき人間関係など、何も分からない私に本当に親切にしてくれました。
その甲斐があって、徐々に仕事にも慣れ、一生懸命仕事を覚えていきました。
1か月が経ったころ、それまでいた病棟から、介護病棟へ異動になりました。
そこでまた、自分が自分でいいんだ、と思える出会いがあったのです。
介護の仕事に就いている人の中には、それまでの人生で、傷つき辛い思いをもってここにたどり着く人も多いと感じています。
そのせいか、本音で話す、その人をそのまま受け入れてくれる器の大きさを感じていました。
私もそれまでに、わたしなりに傷つき、悲しい思いを持っていましたので、そのままの私を受け入れてくれるその環境に、戸惑うのと同時に、”このままでいいんだ”と、不思議な気持ちになったのを覚えています。
介護の仕事は、思っていた以上に大変ではありましたが、そこで働く人、そして介護の対象であるお年寄りの方々のお世話をするうちに、私の心が少しずつ溶けていくように感じました。
今の私があるのは、紛れもなく、この時に出会った人たちに助けられたお陰です。
今日はここまで。
次回は、6年半務めた病院での介護の仕事から、実家の家業を継ぎ、社会福祉士の資格の取得を目指すまでを書きたいと思います。
では、また👋
辛いのは、自分だけじゃない。
こんにちは!doriです。
今日は、職業訓練の学校から、無事就職するまでを書きたいと思います。
やっとの思いで、職業訓練の学校に入ることが出来ましたが、その日から規則正しい生活が始まりました。早起きして学校に行く準備をして、ご飯を作って食べて、片道30分の道のりを車で通いました。
介護の勉強の担当の先生に、自己紹介から、と言われて少し戸惑いましたが、みんなそれぞれ事情があって職を離れ、いまここにいる。一人ひとり自己紹介が行われるうち、自己紹介しながら泣き出す人もいました。
それを聞いているうちに、私もなんだか悲しくなって、そんなつもりはないのに、自分の番には泣いてしまいました。
その時感じたことは、”あぁ、辛いのは自分だけじゃないんだな”ということでした。
慣れない勉強に日々大変でしたが、そこで知り合った人たちは多分多少なり、心に傷を負った人もいて、人にやさしく、学校に通ううち、少しずつ癒されていったと思います。
そんな日が2か月くらい続いたでしょうか。学校もあと1か月という頃、病院の介護の求人があるとのこと。受けてみないか、と言われました。
すぐにでも働いて、お給料を貰わないといけない状況でしたので、すぐに、受けてみることにしたのです。
結果は、無事、合格。
本当に嬉しくて、ほっとしました。そして、職業訓練の途中で、病院に就職したのです。
今日は、ここまで。
次回は、病院に就職して、少しずつ自分をとり戻していったことを書きますね。
では、また👋
回復の兆し
皆さん、こんばんは!doriです。
職安で、一枠しかない介護の職業訓練に申し込んだ私でしたが、なんと申し込みが定員の倍近くあり、試験が行われることになりました。
うつで、頭が全く回らないなか、簡単な計算や一般常識を必死で解きながら、”多分ダメだろうな”と思いながら試験を終えました。
後日、合否が通知されると、予想に反して受かったのです。自分の中では、本当に必死だったので、とても嬉しかったのを今でもよく覚えています。
それから、お金を貰いながら、介護と簡単なパソコンの資格を得るための勉強が始まりました。毎日、同じ時間に起きて、学校に通う。そのために、早起きして、きちんと朝ごはんを作って食べる。朝日を浴びながら通学し、規則正しい生活を心がける。
一日、一日をきちんとこなしていく中で、少しずつ、うつの症状が改善していきました。もちろん、病院で処方されたうつ病の薬は欠かさず飲みました。
今、うつ病で苦しんでいらっしゃる方の中には、薬に頼る治療に疑問をもち、治療を躊躇されることもあるかもしれません。私も、自分はうつではないと、頑なに思っていたので、初めは懐疑的でした。ですが、うつ病の治療は、薬だけではなく、自身の行動を変えることで、症状の改善を図るなど、様々な方法があるようです。
ですので、今、辛い状態にある方は、ぜひ精神科に掛かってください。
そして、先生を頼ってください。
辛い状況にある中で、”自分でどうにかできる”、というのは、多分とても難しいです。ただ、自分に合う病院、治療法、薬などをすぐに見つけることは難しいかもしれません。でも、そこを妥協せず、必ず治すという強い気持ちをもって、探してください。
自分が本当に求めれば、必ず見つかります。
私は、あの時、母に引きずられるように精神科に行って、本当に良かったと思っています。あれだけ辛かった症状は、私の場合は薬が助けてくれました。
しかも、とても早く回復に向かいました。
今日は、ここまで。
次回は、職業訓練の途中から、病院に就職するまでを書きますね。
では、また👋